棚橋弘至というオトコ
出典:東スポWEB
新日本プロレスの棚橋弘至というレスラーをご存知だろうか。
棚橋と言えば、2000年代に暗黒時代に突入していた新日本プロレス、いや、プロレス界全体の、文字通り「太陽」として君臨したスターレスラーだ。
・・・否、辛酸を舐め、泥をすすりながらも地に落ちそうになっていた新日本プロレスを支え続けた最大の功労者。華やかな外見とは裏腹に、壮絶な時代を這いつくばりながら駆け抜けたレスラー。
当時、格闘技路線に足を踏み入れたことが契機となり、プロレスシーンは世間から見放されかけていた。その中で「プロレスラーとしての矜持」を貫き、不遇の時代のなかメインイベンターを務め続けた棚橋がいたからこそ今の新日本プロレスの盛況があるのだ。
棚橋が嫌いだった
出典:東スポWEB
そんな事情は知っておきながらも、俺は棚橋弘至があまり好きではなかった。
凄惨さや血生臭さが、彼のプロレスからはあまり伝わって来ない。キレイすぎて、説得力にも欠ける気がしていた。キラキラし過ぎていて煩わしかった。新・闘魂三銃士で括られた三人の中では中邑真輔を推していた。
ナルシストキャラも嫌いで、「愛してま~す」のキメ台詞は特に好きではなかった。
フィニッシュホールドのハイフライフローに関しても、「ただのダイビングボディプレスだろう」と蔑んでいた。武藤敬二のラウンディングボディプレスや獣神サンダーライガーのスターダストプレスの劣化版だ。
・・・棚橋弘至を認めることが出来なかった。
一枚の写真
出典:東スポWEB
俺はいま、一枚の写真を紛失して、探している。
それは棚橋弘至と、彼が保持していたIWGPヘビー級ベルトと一緒に撮った写真だ。
とてもとても大切な写真だが、どこかに行ってしまった。
その写真を撮った時の話をしたい。
彼是10年以上前のことだ。
新日本プロレスは俺の住む熊本にも巡業で大体年に一回以上来る。
その年も熊本で大会が組まれていた。
その年は、大会の前日にプロモーションで選手の内何人かは前乗りしており、トークイベントが開催された。
今となっては考えられないが、当時はまだまだ新日本プロレスの人気も今ほど盛大なものではなく、そのトークイベントも無料で、熊本の中心市街にあるカフェテラスのようなところでオープンに行われた。
少年のころからの筋金入りのプロレスファンである俺は、新日本が下火の時代も変わらずずっと関心を持っていて、毎年欠かさずに熊本大会は観戦に行っている。
その年は前日のトークイベントも観に行くつもりで準備をしていた。棚橋が前乗りしていることは知っていた。あまり好きではなかったが、やはり間近で拝めるというなら見たいと思った。げんきんなものである。
しかし当日、不覚にも仕事が長引いてしまう。全くもってイベントの時間には間に合わくなってしまった・・・。
棚橋弘至と邂逅する
出典:東スポWEB
間に合わなかったことは分かってはいたのだが、俺は「何かあるかもしれない」という一心で、仕事を終えてから大急ぎでトークショー会場であるオープンカフェへ向かった。
コインパーキングに車を停めて、一心不乱に走った。こんなに走ったのはいつぶりだろう・・・。そう思ったのを今でもよく覚えているくらいだ。
しかし、走っている時、既にトークショーの終了時刻から30分くらい経過していた。「行っても何もない」
そういう思いも過ぎっていた。
カフェに着くと、既にいすやテーブルの撤去作業が行われていた。
・・・深いため息。
しかし・・・
一際目立ついで立ちの大きな体格の男性が、スタッフの撤去作業を手伝っているのが見えた。
・・・棚橋弘至だった。
呆然と立ち尽くす俺。
棚橋弘至はそんな俺に気付く。
手招きする棚橋弘至。
俺「・・・えっ・・・」
棚橋「来なよ。握手でも、写真でも大丈夫だよ。」
俺「でも、もうイベントは(終わっているのでは)・・・。」
棚橋「関係ない。今、体はあいてる。見に来てくれたんじゃないの?」
・・・こんな事があるのだろうか・・・。俺は今まで生きてきて、自分の目と耳を疑うほどの出来事にそれほど多く遭遇したことはなかった。
棚橋弘至の優しさ
出典:東スポWEB
実物の棚橋弘至と間近で接する時、先述したようなネガティブな感情は考える余裕もなかった。ただただ、俺は感動していた。
棚橋弘至は、握手をしてくれて、色々話をしてくれた。
俺のような男性のファンがいてくれることがとても心強いこと
熊本のラーメンが好きだということ
新日本プロレスをもっと盛り上げたいということ
そして、プロレスラーという職業に誇りを持っていること・・・
目頭が熱くなった。
棚橋弘至の言葉は優しく、力強く、そして格好良かった。
放たれるオーラに圧倒されて、話す言葉が上手く出てこない。これがスターなのかと初めて思った。
最後に、IWGPヘビー級のベルトと一緒に、肩を組んでツーショットの写真を撮ってくれた。
10分くらいの間だったが、俺には30分以上に感じられた、夢のような時間だった。
棚橋弘至という男
出典:東スポWEB
棚橋弘至と邂逅したことは一生忘れられない思い出である。
一般のいちファンに、そんな時間を取ってくれるスターレスラーがいるだろうか。
彼はきっとそんな男なのだ。分け隔てなく、気取らない。そして、損得で動かない。あの場面で俺に対応することで何か得があるとは思えない。でも彼は優しかった。
・・・有名な逸話がある。新日本プロレスの道場にはずっと創設者であるアントニオ猪木の巨大なポスターが掲げてあった。それを、ある日棚橋はおもむろに剝がしたのである。
アントニオ猪木は当時既に新日本プロレスから離れていたが、神のような存在であることには変わりなく、誰もが棚橋の行為に慄(おのの)いた。
先述したように、2000年代初頭、新日本プロレスは暗黒時代の只中にあった。そのきっかけになったのは総合格闘技やK-1等の台頭。そしてプロレスラーがその舞台に引っ張り出されたことである。その場で芳しい戦績を上げることが出来なかった為、世間から冷ややかな視線を浴びせられた(この話も色々裏があり、とてもこの場では話し尽くせないのだが)。「プロレスラーは強い」という神話が儚くも崩れ去った出来事だった。
その一連の仕掛人は他でもないアントニオ猪木であると言われている。
棚橋弘至は、「プロレスをする」「プロレスを貫く」と宣言している。格闘技路線ではなく、新日本プロレスはプロレスをやる。そしてそれを自分が旗頭になって引っ張る。
アントニオ猪木の呪縛から新日本プロレスを開放し、自分達の足で歩いて行くという決意表明だったのだろう。
その決意の通りに、棚橋弘至は「純プロレス」を貫き、やがて気付けば徐々に新日本プロレスの会場には活気が戻っていった。誰が何と言おうと、今の新日本プロレスがあるのは棚橋弘至のお陰なのだ。
棚橋弘至が好きだ
出典:スポーツ報知
・・・棚橋弘至があまり好きではなかった。
でも今、俺は棚橋弘至をずっと目で追っている。別に邂逅して優しくしてもらったからというだけの理由ではない。
会って、話をして、目を見て。それからアーカイヴで棚橋弘至の足跡を辿った。そこには、今まで気づかなかった彼の信念が満遍なく散りばめられていて、棚橋弘至というレスラーの眩いばかりの魅力が詰まっていた。
棚橋弘至は「100年に1人の逸材」というキャッチコピーで、自称もしているが、その実態は全くそういった天才のようなものではなく、揺るぎない信念を持ち、誰にも劣らない使命感と正義感に溢れた男の中の男なのだと思う。自分では「チャラい」「イケメン」を自称しているが、それらは実は内面に秘めている熱き想いをカムフラージュする為の詭弁なのかもしれない。
顔も格好良いが、その何倍も格好良い要素は間違いなくその生き様なのである。
出典:東スポWEB
そんな棚橋弘至ももう46歳。そろそろキャリアの晩年が差し迫ってきている。
最近は膝の調子が極限まで悪化しているのが一目瞭然で、スピードが極端に落ちている。技の精度も良くない。
表情はまだまだ元気で身体の張りもあるが、あと何年元気に試合をしてくれるのだろうかと心配になる。
多分もう邂逅することなどないと思うが、もしも奇跡的にあるのならば、あの時の御礼に、今まで新日本プロレスを支えてくれたことへの感謝も添えて伝えたい。
・・・俺は、棚橋弘至が好きだ。
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