久し振りに父の話をしよう
これまで幾度かこのブログで父の話をしてきた。
私の父は根っからの洒落者であり、その父の背中を見て育った為私も服好きになったのだと思っている(因みに弟がからっきし無頓着なのは永遠の謎だ)。
私は一小節で父の拘りを説明する際にいつも以下のエピソードを紹介することにしている。最も端的で分かりやすいからだ。
もう10年以上前のことだが、父は交通事故に遭って入院した(10:0に近い割合で相手に過失のある事故だった)。
一時的に身体全体が動かしにくくなった入院中の父から電話があったのだが・・・
父「ネックレスを買ってきてほしい」
私「?」
父「病衣を着ているから、何かオシャレをするとしたらネックレスくらいしかない。だから、買ってきてくれ。」
私「・・・具合はどうなの?」
父「それはそれ。兎に角買ってきてほしいのだ。」
これはある意味(いい意味で)父の筋金入りっぷりを示すには十分すぎるエピソードだと思う。
心理学で有名なマズローの欲求段階というものがある。
これは、人間の欲求が5つの階層に分かれていて、下位欲求が満たされることによって次の階層の欲求を求めるようになるというものである。
マズローの唱えるところによれば、下位欲求が満たされなければ上位の欲求が発生することは基本的にない筈である。
例えば風邪で体調を崩した時等に旅行に行きたいだとか新しい靴が欲しい、或いは出世したい等といった発想はほぼほぼ思い浮かばないだろう。そういう寸法なのである。
健康が害されている状態の父は、「安全の欲求」よりも上位の欲求が発生しない状態のはずなのだが、オシャレをしたいという(恐らく)承認欲求か若しくは自己実現欲求に該当するような欲求が発生していると言えた。
さすがは父だと感心したものである。やはりなかなかいないほどの筋金入りだ。
73歳になった父
最近は新型コロナ禍の影響もあり、年に何度かしか両親と会うことが出来なくなっている。この年始も実に久しぶりのことだった。
母はまだまだ元気で相変わらず従来の爛漫な雰囲気を放っているが、父の様子は随分変わった。
色々と言及すべきところはあるが、最も顕著なのは装いに対する拘りが徐々になくなりつつあるという事だ。
勿論その辺の70代に比べたら全く以て洒落ているが、先述したように父は筋金入り中の筋金入りだった。
未だに髭を綺麗に整えているし、ジョン・レノンばりの丸眼鏡を愛用して、相変わらずハミルトンのカーキフィールドを着けている。グレーのミニクーパーが愛車だ。
しかし、明らかに一昔前との違いは顕著に見える。
楽に装えるものに傾倒しているし、年始に着ていたセーターはあんなに嫌っていたユニクロのものだった。
そして、決定的な出来事があった。
ダーバンのネクタイ
今回帰省するにあたり、父からネクタイを譲ってもらおうと考えていた。
普段あまりネクタイを締める機会のない私だが、コロナ禍もひと段落したあたりから俄かに正装で人前に出る機会が増えてきていたからだ。
自分で購入しても良いのだが、父が抱えきれないほどのコレクションを有している事を知っていて、譲ってもらうのが一番良いという思いがあったのである。
昼食を済ませてから、譲ってくれるネクタイがあるかと父に訊いてみた。
「ある。」
一言、静かにそう言ってから父はクローゼットに向かった。
取り出してきたネクタイホルダーには20本前後のネクタイが下がっていた。
若い頃はその数倍の本数を所有していた筈だったから随分減っていることに取り敢えず少し驚いた。
「使わないもので良いから欲しい」というと、父は一本のネクタイを取り出した。それは・・・
ダーバンのシルクタイ。
ダーバンは父が働き盛りの頃に名を馳せた日本のブランドである。
2020年に経営母体のレナウンが経営破綻し、最近は余りその名を聞かなくなったが(ブランドは他社に売却されて存続はしているようだ)、クラシックモダンで高品質なフォーマルウェアを展開し、2000年前後にその地位を確立している国内の一流ブランドだ。
このダーバンのシルクタイは、父のお気に入りの一本だったことを私は知っている。
とある会合で知らない人から「どこのネクタイですか」と尋ねられたのだと父が喜々と語っていたことを覚えているからだ。
良いモノはやはり他者の興味を惹くものなのだと言っていた。
小紋柄をアレンジした捻りのあるジャガードのデザインは秀逸で、見る角度によってネイビーやグレーっぽいカラーに変わり、陽の光があたるとダークパープルのようにも見える。
否応なしに美しいネクタイだ。
勿論シルク100%ながらパリッとした生地感も秀逸だ。目が詰まっていて耐久性の高さも感じられる(未だに新品のように良好なコンディションだ)。
全盛期のダーバンの凄味が詰まっている一本だと言って良い。
ダーバンのネクタイを譲るという意味
他にカルバンクラインのものとヒューゴ・ボスのものも譲ってもらったが、私に譲るものとして特にこのダーバンのシルクタイが選ばれたという事に特別な意味合いを感じた。
つまり、父は装いに関する執着がほとんどなくなってしまっているという事である。
このネクタイは父の全盛期を象徴する一本だった。
良いモノを譲ってもらったという喜びよりも、やはり寂しい気持ちの方が勝ってしまった。
父は明らかに老いた。
恐らく、ネクタイをきちんと締めて出る場はもうないのかも知れないと感じているのだろう。
帰り道で色々なことを考えた。
信号待ちで、バッグの中から貰ったダーバンのネクタイを取り出して眺めた。
キリッとした、威厳のある父のたちすがたが思い浮かんだ。
お洒落で、渋くて、そして威厳に満ちていた。
あんな大人の男になりたい。
そう思って、結構頑張っては来たつもりだ。
後ろの車からクラクションを鳴らされた。
・・・気付かないうちに青信号になっていた。
借りておくことにした
1月の末にフォーマルな会合がある。
その際にはこのダーバンのシルクタイを締めて行こうと思っている。
父が「これならシャツはホワイトのレギュラーカラー、そしてスーツはチャコールが良い」と言っていた。その通りにしようと思う。
このダーバンのシルクタイは、譲ってもらったのだが、それはやっぱりやめにすることにした。
借りておくことにする。
父が又スーツを着て、このタイを締める姿が見てみたいのだ。
その時に返そうと思う。
帰りしなに、父が上半身の写真を撮るように言ってきた。
・・・嫌な予感がしたので聞いてみようと思ったが野暮だと思いやめた。
間違いなく、何かあった時の為に、遺影用にと思ったに違いない。
周到な性格の父らしいと言えばらしい。
父は若い頃から常々、「別に死ぬのは怖くない」と言っていた。
「死んでも無になるだけだ。それに、生きる苦しみから解放される。」
それは分かる。私もそれに近い思想を持っているからだ。
でも、家族としては一日でも長く生きていてもらった方が嬉しい。母などは特にそう強く考えている事だろう。
最近はそんなことを考えるようになった。
私も、父が亡くなること自体は怖くはない。
本人が怖くないと言っているのだから怖がるわけにはいかないのだ。
しかし、父という存在がいなくなってしまったらどんな世界になってしまうのだろうというようには思う。
世の中の色々なことは多分・・・というか確実に何も変わらない。
でも、私を含めた周りの人間にとってそれは小さくない出来事なのだ。
いつも日も、いくら老いたとしても、父は私の生きる指針なのだから。
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